学校案内

建学の精神

確かな学力と豊かな人間性を兼ね備えた グローバルリーダーの育成を九州・唐津の地から。

2010年4月、早稲田大学の7番目の附属・系属校として、九州北部の佐賀県唐津の地に早稲田佐賀中学校・高等学校は開校しました。
「九州のWASEDA」として、早稲田大学建学の精神の三本目の柱「進取の精神」「学問の独立」「地球市民の育成」を理想とする教育活動を展開・発展させ、九州を代表する進学校を目指しています。
中学校では知識や思考力・判断力につながる基礎的な学力を徹底的に重視した教育を行い、その上に一人ひとりの個性を伸ばします。高等学校では基礎力を応用力、実践力へと発展させ、さらに高い学力や能力、そして意思決定力や国際性を育成し、最適かつ高いレベルの大学で学ぶための力を付けます。
特に理数系科目と英語の教育には力を入れており、将来国際社会に貢献できるグローバルな視野を身に付けた、豊かな個性と創造力を併せ持ち、人間力のある青年の育成を行います。

 
大隈重信
早稲田大学創設者大隈重信の精神を根底とした独自の建学の精神。

グローバル化が進展する21世紀。高度な専門的知識、高い教養、自主的な判断ができる国際人の育成が不可欠になっています。
日本という枠を超えた"グローバルリーダーの育成"を目標に掲げ、早稲田大学の精神を根底に、確かな学力と人間力を育む独自の建学の精神を定め、地球市民の育成を実現していきます。

 
進取の精神
さまざまな事象を積極的に取り入れ、そこから新しいものを創造する精神を育成します。
学問の独立
現在、そして未来のあらゆる課題に挑戦できる基礎的な学力と実践的な応用力を育成します。
地球市民の育成
日本、そして世界の将来に貢献する人間性豊かなリーダーとなる人材を育成します。

早稲田大学創設者 大隈重信の原点はここ、九州・佐賀にあり。

大隈重信記念館(生家)
 
大隈重信像

大隈重信記念館(生家)の
敷地内に立つ大隈重信像

佐賀藩の藩士の長男として誕生した大隈重信。
父の影響により、西欧の風を感じていた幼少時代

佐賀市中心部から徒歩すぐの水ヶ江という地区に、天保年間に建てられた貴重な武家屋敷が残っています。平屋茅葺に一部2階建ての瓦葺き家屋は、国の史跡にも指定された重厚な建物です。この場所は佐賀城にも近く、かつては武家屋敷と、役人や商人が集まる会所があったところでした。早稲田大学の創設者である大隈重信は、1838(天保9)年2月16日に、この「大隈重信生家」で産声をあげました。
長男として生まれた重信は幼名を八太郎といいました。父は佐賀県藩士であった信保。大隈家は代々の兵法家で、信保の仕事は長崎港警備を担当していた砲台の指揮官でした。信保は火薬に必要とされる化学的な知識や、大砲を発射するときに重要な斜角を計算する数学的知識にも通じていました。そんな父の仕事ぶりを見て、重信は将来は父のようになりたいと思ったこともあったそうです。信保は外国領事と会談することもあり、重信は幼いながらも父を通じて、日本と西欧との違いを自然と感じていたのではと推測できます。また一方で、重信は泣き虫でおとなしく、字が下手だったというエピソードも残されています。

 
7歳で藩校弘道館に入学し勉学に励む。
重信(八太郎)の勉強部屋を2階に増築。
重信(八太郎)の部屋

居眠り防止の柱がある重信(八太郎)の部屋

そんな重信をあたたかく見守ってくれたのは、心やさしく慈愛に満ちた母・三井子でした。7歳のとき 重信は藩校弘道館に入学しました。その際、三井子の考えによって、重信の勉強部屋を2階に増築したといいます。机の前に突き出した柱は、勉強中の居眠り防止として三井子が考え出したものだそうです。 1850(嘉永3)年に父が他界すると、その後は三井子が二人の兄弟と二人の姉妹を育て上げたため、 重信と母との結びつきは一層強くなりました。のちに大隈重信は長崎や京都へと出かけていましたが、 30歳になるまでこの場所を拠点としていました。

 
大隈、母 三井子、綾子夫人肖像

大隈、母 三井子、綾子夫人肖像

人と会うことが大好きな政治家。
その非凡なスケールのルーツはやはり佐賀。

佐賀藩士の次女で、佐賀城下に育った三井子は、几帳面で度量が広く、慈愛に満ちあふれた母でした。三井子を回想したエピソードがあります。「わが輩は母一人の手で育てられたが、十五、六歳の時分からすこぶる乱暴者で、まるでがき大将のようであった。友人が盛んに遊びにくるので、わが輩の家はクラブの如きものであったが、母は大層人を愛し、客を好まれたから、友人が訪ねてくることを非常に喜んで、手料理をこしらえて馳走してくれた」(『大隈伯百話』)。重信は人と会うことが好きだった政治家でした。人を愛し、慈善を施すことを好んだ、三井子の教えに従ったものだったといえます。
1889(明治22)年、大隈は暴漢に襲われ、残念なことに右足を失うこととなりましたが、その時も暗殺未遂の犯人を「愛国の精神ももって行動したる志士なり」と称賛したといいます。これも母の影響があってこそ、と感じずにはいられません。父と母、そして故郷・佐賀を愛し続けた大隈重信。"佐賀七賢人"の一人として一番に名が挙がる、郷土を代表する偉人です。