早稲田大学系属 早稲田佐賀中学校・早稲田佐賀高等学校

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早稲田大学

建学の理念

グローバル化が進展する21世紀、日本人も地球市民として様々な役割と責任が期待されるようになりました。教育の分野においても、高度な専門的知識、高い教養、自主的な判断ができる国際人の育成が不可欠となっています。そこで早稲田大学では、創設者・大隈重信の「人生125歳説」に基づき、125周年を迎えた2007年(平成19年)より、新たなる「第二の建学」に踏み出しました。そこでは、日本という枠を超えた、“グローバルリーダーの育成”を目標に揚げています。そこで、大隈重信の生誕の地・佐賀県において、『早稲田佐賀中学校・高等学校』を開設。本学は早稲田大学の精神を根底に、独自の建学の精神を定め、地球市民の育成を実現していきます。

早稲田大学創立者 大隈重信の原点はここ、九州・佐賀にあり。

大隈重信記念館(生家)の敷地内に立つ
大隈重信像
佐賀市中心部から徒歩すぐの水ヶ江という地区に、天保年間に建てられた貴重な武家屋敷が残っています。平屋茅葺に一部二階建ての瓦葺き家屋は、国の史跡にも指定された重厚な建物です。この場所は佐賀城にも近く、かつては武家屋敷と、役人や商人が集まる会所があったところでした。早稲田大学の創立者である大隈重信は、1838(天保9)年2月16日に、この「大隈重信生家」で産声をあげました。
長男として生まれた重信は幼名を八太郎といいました。父は佐賀県藩士であった信保。大隈家は代々の兵法家で、信保の仕事は長崎港警備を担当していた砲台の指揮官でした。信保は火薬に必要とされる化学的な知識や、大砲を発射するときに重要な斜角を計算する数学的知識にも通じていました。そんな父の仕事ぶりを見て、重信は将来は父のようになりたいと思ったこともあったそうです。信保は外国領事と会談することもあり、重信は幼いながらも父を通じて、日本と西欧との違いを自然と感じていたのではと推測できます。また一方で、重信は泣き虫でおとなしく、字が下手だったというエピソードも残されています。
 

そんな重信をあたたかく見守ってくれたのは、心やさしく慈愛に満ちた母・三井子でした。7歳のとき 重信は藩校弘道館に入学しました。その際、三井子の考えによって、重信の勉強部屋を2階に増築したといいます。机の前に突き出した柱は、勉強中の居眠り防止として三井子が考え出したものだそうです。 1850(嘉永3)年に父が他界すると、その後は三井子が二人の兄弟と二人の姉妹を育て上げたため、 重信と母との結びつきは一層強くなりました。のちに大隈重信は長崎や京都へと出かけていましたが、 30歳になるまでこの場所を拠点としていました
居眠り防止の柱がある重信(八太郎)の部屋

佐賀藩士の次女で、佐賀城下に育った三井子は、几帳面で度量が広く、慈愛に満ちあふれた母でした。三井子を回想したエピソードがあります。「わが輩は母一人の手で育てられたが、十五、六歳の時分からすこぶる乱暴者で、まるでがき大将のようであった。友人が盛んに遊びにくるので、わが輩の家はクラブの如きものであったが、母は大層人を愛し、客を好まれたから、友人が訪ねてくることを非常に喜んで、手料理をこしらえて馳走してくれた」(『大隈伯百話』)。重信は人と会うことが好きだった政治家でした。人を愛し、慈善を施すことを好んだ、三井子の教えに従ったものだったといえます。
1899(明治22)年、大隈は暴漢に襲われ、残念なことに右足を失うこととなりましたが、その時も暗殺未遂の犯人を「愛国の精神ももって行動したる志士なり」と称賛したといいます。これも母の影響があってこそ、と感じずにはいられません。父と母、そして故郷・佐賀を愛し続けた大隈重信。"佐賀七賢人"の一人として一番に名が挙がる、郷土を代表する偉人です。
大隈、母 三井子、綾子夫人肖像
   
 
 
 学校法人 大隈記念早稲田佐賀学園 〒847-0016 佐賀県唐津市東城内7-1 TEL:0955-58-9000