早稲田大学系属 早稲田佐賀中学校・早稲田佐賀高等学校

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早稲田大学

学びの環境 唐津

天野為之(1861~1938)は、早稲田大学の第二代学長を務めた人物で、早稲田実業学校の創立者でもあります。唐津藩医の長男として生まれた天野は、東京大学に学び、のちに大隈重信らが唱えた自由民権思想に共鳴。大隈の率いる立憲改進党に入党して政治活動に加わります。そして大隈重信が東京専門学校(1902年に早稲田大学と改名)を設立した後は専任講師となり、教壇にたちました。当時の学生に評判であった高田早苗の憲法学、天野為之の経済学、坪内逍遥の文学は「早稲田三博士の名講義」と呼ばれました。
1885(明治19)年、天野は早稲田大学での講義を礎にして、若干27歳の若さで一冊の経済書を刊行しました。著作「経済原論」は、日本人が書いた最初の経済原論であり、経済学史に残る業績として評価されています。経済学者として名を成す一方、政治家としてもめざましい活躍を見せていました。1889年(明治23)年、最初の衆議院議員選挙が実施されると、唐津の地から立候補をし、当選を果たしました。さらには東洋経済新報社「東洋経済新報」の二代目主幹に就任し、自由主義的な編集方針を確立したといわれています。経済学者から政治家、ジャーナリストとマルチな分野で功績をあげた偉人です。
高知県宿毛市出身の竹内明太郎(1860~1928)は明治から大正期にかけて、近代日本の発展に大きく寄与した人物です。唐津との関わりは1886(明治19)年、実業家として手腕をふるっていた、父・竹内鋼(1839~1922)から芳ノ谷炭鉱(現在の唐津市北波多)の実権をまかされたことにはじまります。英国人技師を招いて、英国製の削岩機やジャックハンマーを導入したほか、唐津湾と芳ノ谷炭鉱を結ぶ専用の軽便鉄道を敷設しました。従業員数は3000人強、1909(明治42)年には22万トンの生産高を誇るなど、国内有数の炭鉱として発展していました。
1900(明治33)年、ヨーロッパを訪れた竹内は、高度な工業技術に感銘を受け、製造業こそが国の発展の支えになっていることを感じとります。帰国後は鉱業から機械工業へと事業を転換させることを決意。こうしてできたのが唐津鐵工所でした。唐津を選んだのは、研究に没頭できる環境であったこと、同時に農漁村であった地に新産業を興したいという意図もあったといわれています。のちに小松製作所の前身となる小松鉄工所も設立します。竹内は同時に技術教育の重要性を説き、人材の育成にも力を入れました。早稲田大学理工学部の創設時には多額の寄付のみならず、私費で育成した研究者すべてを教授として提供するなど尽力しました。
 



玄界灘と虹ノ松原が出迎えてくれる、雄大な自然あふれる唐津のまち。
大陸との窓口であったこの地には魅力ある文化や歴史が息づいています。
唐津城
1607年、豊臣秀吉の側近だった寺沢広高により築城。天守閣と左右に広がる松原が鶴の頭と翼のように見えることから、舞鶴城とも呼ばれています。本校はこの美しい唐津城を望む場所にあります。
名護屋城跡
文禄慶長の役の際、秀吉がわずか5ヶ月で築いた城は、現在は石垣のみが復元されています。大規模な城郭は屋敷や茶室なども建てられ、聚楽第(じゅらくだい)に匹敵するといわれたほどの豪奢な城でした。
大浦の棚田
「棚田百選」に選ばれた大浦の棚田は、眺望がすばらしく、海に向かって弧を描くように作られています。緑が美しい田植えの季節が一番の見ごろですが、夕映えに輝く時間も人々の目を楽しませています。
     
旧高取邸
明治期の炭鉱王・高取伊好の旧宅。西洋式の近代和風建築の建物で、賓客を迎えたとされる豪華絢爛な能舞台や、京都の画家による杉戸絵など見所はもりだくさんです。国の重要文化財指定。
菜畑遺跡 末蘆館
日本の稲作発祥の地といわれる「菜畑遺跡」の展示館。邪馬台国時代の「末蘆国」の遺物のほか、竪穴式住居、水田、縄文の森なども復元しています。建物は古代の高床式倉庫をイメージしたものです。
七ツ釜
玄界灘の荒波に浸食されてできた景勝地です。自然の驚異を感じさせる7つの洞窟は、遊覧船から見学することができます。七ツ釜の上部は草原に覆われていて、展望台や遊歩道が整備されています。


 

 
 
 学校法人 大隈記念早稲田佐賀学園 〒847-0016 佐賀県唐津市東城内7-1 TEL:0955-58-9000